人生百までの表と裏

絵札は映す

 

「三つ子の魂、百まで」という言葉をあらためて思う。

本当にそうだなぁ、と。

じゃぁ、三つまで丁寧に育てたら、あとは大丈夫か?

と思うほどに(笑)

 

カードゲームというか、トランプというか、

ともかく、そうしたものは印刷技術ができて初めて

しっかりしたものになった気がします。

というのも、裏面が同一の絵柄であるべきなのだから

それをそろえるには機械に頼った方がいい。

人間が同じ絵柄を再現することも不可能でありませんが、

バラツキがでやすいし、できたとしても非効率。

そこはやっぱり印刷だろう、と。

 

ただ、だからと言って表面まで一緒である必要はない。

そちらは統一感がなくてもゲームに支障はないのだから

むしろ、自由度が高い方がおもしろい。

 

で、それは社会システムの問題みたいだなぁ、

と思ったりするわけです。

ルネサンス以来、人類は画一的な工業生産が

幸せに結びつくものと考え、それを推進してきました。

が、どうもそうではなかった。

印刷の発明が圧力の発明(グーテンベルグの印刷機は

ブドウの絞り機を改造したもの)だったように、

画一的生産は強いプレッシャーをともないます。

「判で押したような」とは、よく言ったもの。

 

必要性に応じて、あわせるべきところはあわせ、

自由で良い面ができるだけ解放する。

それが、ルネサンスから500年を経た

人類の知恵のように感じます。

 

そして、そのイメージは自分の生い立ちにも重なります。

時折触れることがありますが、幼少の頃、

ぼくのキャンバスは折り込みチラシの裏面でした。

つまり、表面は画一的なスーパーの広告であり、

裏面こそ自由な場所だったわけで

それって、カードの構造とおんなじ!

 

表も裏も白い紙に絵を描くことに

ずっと居心地の悪さを感じていたのですが、

そんなこんなのイメージがつながって

「三つ子の魂、百まで」だなぁと思っている次第。

あと、密かに「百まで生きてやろうかな」と

思い始めていたりもします(笑)

 

だとすれば、人生、まだ半分残ってるじゃん、と。

 

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